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七つの鐘②

七つの鐘の終焉に向かう道程を、若干補足して本部総会関係にふれたい。

『年表 正信覚醒運動の歩み』を参考にみてみると。

昭和54年3月6日 大牟田での福島副会長の問題発言がある。
      3月12日 藤本庶務部長福島発言について質問状、翌日内事部より質問状。
      3月24日 学会本部質問状への回答、同じ日に富士宗学要集全十巻刊行完了。
      4月3日  法華講連合会、池田の総講頭辞任勧告。
      4月12日 池田、東京迎賓館に鄧穎超を表敬訪問。(この時鄧穎超に会長を辞めないよう言われたと伝う)
      4月14日 神奈川文化会館にて池田会長時代最後のスピーチ。
      4月21日 山崎正友ら活動家僧侶と会談。
      4月22日 池田、日達に会長辞任について申し出る。
      4月24日 池田、会長辞任。

その後、聖教新聞紙上で、新人事の紹介、池田談話、会則の掲載などが続き、4月26日には池田、大石寺に登詣し法華講総講頭の辞表を提出。

そして5月3日、創価大学体育館にて第40回本部総会が行われ、その式次第と登壇者は以下のとおりであった。

「開会の辞」・・・宮川総務
「七つの鐘の総仕上げと未来への展望」・・・秋谷副会長
「代表抱負」・・・溝口男子部長
「代表抱負」・・・辻師範会議議長
「名誉会長あいさつ」・・・池田名誉会長
「特別講演」・・・御法主日達上人猊下
「理事長あいさつ」・・・森田理事長
「会長あいさつ」・・・北条会長

以上である。

しかし後にも北条会長に関する話題は少ない。なぜだろうか。

なお同日池田氏は日達氏より「七つ鐘 鳴らし終わるや 五月晴れ」の染筆を賜る。また終了後、神奈川文化会館に行き「正義」の二文字を揮毫したという。

その後、しばらく姿を見せなかった池田氏であるが、5月27日に神奈川文化会館での会合に出席し、「次の10年が楽しみ」との指導を行う。

実質的な池田復権までには、日達逝去、日顕登座という代替わりを待たなければならなかったのである。

直近の出来事だけを追うと、福島発言が大きな問題となったように見えるが、それ以前に学会の路線変更とそれに対する活動家僧侶との衝突は存在した。池田の第9回教学部大会での「仏教史観を語る」を契機に、学会の路線変更が如実となったといわれる。
しかしそうであろうか。そもそも日本仏教僧と在家新宗教との相容れない存在に疲弊が生じただけではないだろうか。
結局その後も、二つの教団はさらに分派を発生させながら紛争続きとなり、やがて分離、大きな宗教被害が発生することになる。

家族離間や財産喪失を伴う、大きな宗教被害は繰り返してはならないと思う。

      





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コメント

[C2426]

四明さん、

ご高覧並びにコメントをありがとうございます。

この時代の歴史の証人が、後の秋谷・森田体制だと思うのですが、その時代に第二宗創紛争が起こった事は、故人に失礼ですが北条氏は当て馬だったということでしょうか。

宗門も酷いが、池田創価も酷いということですね。
しかも第二次宗創紛争の中身は、ほとんどが正信会・継命の焼き直しだった事に、どちらの陣営も疑問を持たなかったのか不思議です。

  • 2015-07-24 20:55
  • 管理者
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[C2425]

学会も大石寺の権威を必要としていたゆえに、富士宗学要集を聖教新聞社から出版したと思われます。日寛上人文段集は、北条氏が世に出したものですが、お詫び登山があり、伝統宗学の復帰を求めたものでしょう。当時は、グルイズム路線の高潮があり、北条氏が影が薄かったかもしれません。充道師は、三学院時代、国分寺で対外的な講演会をして、僧侶からの教学の革新を図ったことは特筆に値します。
  • 2015-07-24 20:19
  • 四明
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