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大乗経典と大乗思想

先般から記しているように、またもはや仏教関連の学術団体等によって認知される通り、大乗経典は仏説ではないだろう。

しかしナーガールジュナやヴァスバンドゥの大乗思想には学ぶべきものが多い。

創価学会員時代、今世に罪障を消滅し成仏すれば、来世は必ず幸せになると云われた。

しかしこれは完全なまやかしであった。

今世にアルハットとなりアーラヤ識が消滅すると、ニルヴァーナに入り二度とこの世界には生まれてこないのである。なぜならば、この世に生まれることが「苦」の始まりであるからである。

アルハットとは精進を重ね、麁重種子が無くなった状態である。

つまり精進が足りず、アルハットに至らなかった場合、アーラヤ識は消滅せず生死輪廻を繰り返す。
さらに精進しなかったものは、死の時点でマナ識の消滅も無く、無意識のうちに苦を受けることになる。これが「地獄」というものだろうか。
いま生きていると云う事は、前世においてアルハットに至らず、ニルバーナに入ることができなかったのである。

さてではどのような精進が必要なのか。
それは止観(天台の「摩訶止観」ではない)であり、特定の経典を読むことでは無い。
また特定の言葉(題目・念仏・真言)を繰り返す事でもない。
当然ながら特別な外道義的荒行を経験したものが、代理祈念をすることでもない。

人も死によって、眼・耳・鼻・舌・身・意と云う六識は消滅する。
その後の苦の度合いは、今生の業によりマナ識・アーラヤ識の状態に左右される。

これらは唯識(ただしき)のみが存在し、他は全ては空であるという大乗思想に支えられたものであるが、決して原始仏教に近いといわれるものと大きく隔たりは無いと思う。

「識」の無い、「本尊」等の類は皆、空である。
当然ながら位の高いと云われる僧侶が「開眼」らしき呪いを行っても、そこに「識」は無い。
よって「本尊」等の類は全て気休め程度の、これまたまやかしに過ぎない。

但しナーガルジュナやヴァスバンドゥの思想全てを肯定しているわけではない。
個人的には菩薩は人、ブツタは独覚(縁覚)であると考えている。
アルハットは声聞・縁覚のみが達しえるものと思っている。

日蓮・天台系等で云う九識、真言系で云う十識は共にまやかしである。
識はアーラヤ識までの八識であろう。

十界論もまやかしで、八界までではないのか。

そう頭で思っても、俗世に生き、執着の心を日々起こしている為、苦はそう滅することはできないだろう。
その時人は信仰というまやかしによって気休めを受けるのである。

その気休めすらない宗教は、宗教失格。宗教法人返上して納税者となるべきだろう。





日記中の「これらは唯識(ただしき)のみが存在し」の『存在』とは、『実在』とは区別して考えていただけるとまだマシだと思いました。mixiにて当日記に対する御叱正を賜り、本来の唯識とは「識」もまた「空」であるとご教示戴きました。『存在』には『現象』としての意義、また『他に依存しないであるもの』との意義があります。「識」と「空」をたて分けた記述は現時点では誤りであったと思いますが、本尊の必要性の否定、特定の経典を読んだり、同じ言葉を繰り返す事を修行や精進とする思考を否定する考えは変わりません。また九界、十界、九識、十識の否定も今のところ変わりません。チャンドラキールティの注釈プラサンナパダーをテクストとしたナーガールジュナの中論、ダルマパーラの注釈をテクストとしたヴァスバンドゥの唯識三十頌には学ぶべきものが多いことも現段階では変わりません。但し日記のコメントにも記した通り、今後も良き諸先輩・諸賢のご教示、自己学習によって、よりブツタの思想に近いと思った事は、何度でも自信の考えを改め、それまでの誤りを悔いて、特定の思考に固執しないようにしたいと思います。
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コメント

[C1837]

愛国沙門さん、

御高覧並びにコメントをありがとうございます。

檀林復活は新宿の日蓮仏教研究所が試みていますが、僧侶も自坊の事で忙しい昨今、なかなか思いはあっても外に出られない方もいるようですね。

私も固定の思考に留まることなく、精進・学問を続け、何度でも自分の間違った考えを修正して行きたいと思っております。

  • 2013-07-25 07:25
  • 管理者
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[C1836]

平安時代、傳教大師最澄上人と、会津の徳一上人が、「一乗真実」か「五性各別」かを、鎬を削る法論をされた。日蓮大聖人は、幾つもの御書の中に、この公場対決のエピソードを取り上げておられる。本化開宗より池上鶴林に至る迄、常に「公場対決」を念頭に化導を重ねられた聖生涯で有られる。残念ながら、最澄上人に対した徳一上人のような、学徳兼備(徳一上人は会津では聖人と呼ばれる)の好敵手は、日蓮聖人の前に現れなかった。平安時代、鎌倉時代より機根が天地雲泥の差の現代の坊さん(無論、私も含めた)は、公場対決など、天地がひっくり返っても無理だが、いにしえの学僧をまねぶ雰囲気を持たねば、日本の仏教文化は滅亡してしまう。出家ならば日蓮大聖人に代表される先師方。在家ならば、ご先祖様に申し訳無い。矢張り「檀林復活」を思う同志、協力して行動を興さねばならないと感じました。
  • 2013-07-25 05:02
  • 愛国沙門
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