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三鳥院日秀は存在した

三鳥院日秀御筆御本尊(部分)

最近、某サイトにて三鳥院日秀は実在しなかったとの暴論を述べているものがいるという。

今回紹介の部分画像は、かつてオークションに出展された三鳥院日秀直筆御本尊の部分画像である。

主題直下、「日蓮在御判」とあり、加えて向かって左に「日興聖人」とある。
そしてその下に自著花押が大書してある。
そう、この本尊書写は大石寺日精師と全く同じである。
私は福島一円寺蔵をはじめ複数の日精師書写本尊の画像を所持している。
また過去に日蓮正宗寺院の御虫払い法要でも複数実見している。
「日興上人」ではなく「日興聖人」と書くのは日精師の独特な書法であり、三鳥院日秀は日精師より正式に本尊書写の相伝を受けた人物に違いない。

なお、この日秀本尊の筆跡と日精師の筆跡は明らかに異なり、同一人による偽筆などではない。
もちろん貞亨三年には日精師は既に存在していない。(日精師は天和三年没)

私は日秀筆本尊の全体写真も所持しているが、ここでは公開しない。

前回、都内某所での勉強会で、三鳥派に関する研究発表があった。
そこで紹介された未公開の石碑も、私がみる限り間違いなく三鳥派のものである。
実にすばらしい史料の提供を戴いたと感謝している。

諸般の事情あり、いま、ここで全ての史料を公開するわけにはいかないが、三鳥院日秀は確実に存在した。
そして大石寺日精師より本尊書写権を相伝された有力な弟子であったこと、大石寺歴代でこの日精師の本尊書写法を受け継いだものは皆無であり、大石寺の血脈は三鳥派にこそ伝わり、今の大石寺の血脈は日精師の代以降のものであることは間違いない。

三鳥派こそ、日精師の正当な継承者であり、日精師の血脈を受け継ぐ集団だったのである。
その三鳥派が滅亡した今、大石寺の血脈は他山からの逆輸入血脈である。

今はこのくらいにしておこう。





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コメント

[C1625]

管理者様

御高見の御教示、有難うございます。
石山(日道師門流)の教学史は、管理者様の御指摘の通りであろうと思います。
ただ、板本尊の造立で言えば、当流では、日郷上人御遷化の翌年に、同上人の康永三年の御筆御本尊の模刻板御本尊の造立が行われており、板本尊の造立という点では、日道師門流より当門流の方が先行しているやに見え、日時師の御影造立を含め、日道師門流(後の大石寺門徒)の宝前の安置様式は、東坊地の当門流の影響を強く受けた様に見えます。

また、当流の十二代日要上人と石山日有師には、教学上の応答をなしたという記録もあり、日有師が当流の教学を摂取する場面はありましたし、石山の“耳引き法門”は、当流の教義の摂取と強く推測されるので、日時師段階で、当流の石山東坊地退出以前に、多少は、日道師門流が当流の教義を摂取しうる場面があった可能性は残っているものと思います。

本因妙抄の末尾に「日文字口伝産湯口決二箇両大師玄旨アツ本尊七箇口伝表七面決教化弘経七箇…」とありますが、妙本寺、また日向の旧当門流寺院の定善寺には、本因妙抄の上記口伝書に対応すると見られる日文字口伝・産湯切紙二箇習二重という切紙が伝来しており、日興門流上代事典の百六箇抄の項における“本書の流伝形態等からすれば「本因妙抄」が富士・関東系であるのに対し、本書が京都・出雲系との印象が強い”との指摘があるように、本因妙抄の成立には、当流も関係している可能性が高いと思います。

なお、石山の出版している書籍に見える御本尊七箇之相承では、「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」と訓読みしておりますが、日蓮宗宗学全書本では「日蓮在御判ト嫡々代々書ヘシ」としており、石山の読みよりも意味が通じますので、日蓮宗宗学全書本の方が本来の読みであろうと愚考しております。



  • 2013-01-10 20:31
  • れん
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[C1623]

れんさん、

御高見の御披瀝ありがとうございます。
私の管見では、行・時の二師は、郷門と係争はあれど、法門を摂取しあう場面があったかどうかは疑問があり、むしろ両師とも尊門とは通用があった事が、山口範道師の歴代上人著述目録などから伺えます。
日道師の日興上人御遺告や、日時師と奥州、仙派檀林などの影響により、初期石山教学が出来上がり、有師代にやはり尊門と隆門の影響によって整備が進み、日寛師前後でようやく郷門に蓄積された相伝に手を付けたのではないでしょうか。

  • 2013-01-10 18:41
  • 管理者
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[C1619]

三鳥院日秀師が了玄院日精師より受けた相承に関連したものとして、若干の考察を記しますと、石山の三十九世日純師は、加州住人中村某に与えた消息に「凡そ三箇秘法とは是れ常談の如く蓮興目と次第梯橙の御付属にして、所謂唯授一人の一大事の相承是れなり。然るに主師報恩抄三箇の下に示して、此の三箇の秘法蓮目興と次第相承する法門なり(中略)所謂生の御付属の次第は常途の如く蓮興目の次第是れなり。次に死の御付属とは、今主師示し玉ふ蓮目興の次第是れなり」と記しておりますが、これに関しては、石山の三十一代日因師の著作・三四月会合抄には「日目上人直授相承云『三口一徹一徹三口、所謂本門三大秘法大事是也云々』」と引用があるものがあります。これらも、日道師が、元来重須系であれば、道師門流以来の独自のものではなく、日郷上人法系図に記される蓮興目の授法次第と蓮目の学法次第、また日向開山日睿上人の著述の類集記に記録される蓮目の「日蓮聖人御出世御本懐御法門」の相承次第を含め、また、日睿縁起①本に「貞和五年上下弐帖抄述作給。此抄内自高祖日興相承、自高祖日目直相承、自日興日目相承、自日目日郷相承次第委細記之給」とある。寧ろ先行する当家の伝承の教義を、日行・日時両師の二代以降に於いて、石山が巧みに取り入れ自山の教義に改変して、確立いったものと見た方が至当であると考察しております。



  • 2013-01-09 21:43
  • れん
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[C1533]

諸賢のコメントを拝見して、日精・三鳥院日秀につきやや調べてみました。

先ず、日精の“当家相承之事”ですが、歴全二巻313ページによると、延宝九年(西暦1681)八月十二日付けで、正本は埼玉妙本寺蔵となっております。が、歴全の口絵にも、正本の写真図版は掲載されず、存疑の文献の可能性があります。次項の“当家甚深之相承之事”は単に写本大石寺蔵となっており、日精の自筆正本は現存しないですね。寧ろこの文献の「本山十八祖日精」という署名が当文献の存疑性を醸し出しております。


ネットで三鳥派を検索すると、ネット上の辞書では「日蓮宗富士派の一分派で三鳥院日秀が寛文年間(1661~1673)に首唱、邪宗として幕府に禁圧された」…という意味の解説が載ります。

大石寺日精より血脈相承をうけたものの、大石寺歴代になれずに浪人した三鳥院日秀が、それからかなり時間を経てから、三鳥派を立ち上げたのが寛文年間(1661~1673)とすると、日精が当家相承之事を書いたのは、日精最晩年の延宝九年(1681)であり、時系列的には、三鳥院日秀が三鳥派を立ち上げてからになります。歴全に載る上記二書が日精自筆であれば、穿った表現をすれば、日精が、自ら血脈を授けた三鳥院日秀が、大石寺から独立した一派を立ち上げたことに大変な危機感を抱き、日精は三鳥院日秀に対し、いわゆるトカゲの尻尾切りの挙に出たものと言えるでしょうね。

なお、遠い昔に都内某書店で立ち読みした「妙観文庫蔵書目録」によると、日時師には「妙法蓮華経色心実相境智根源口決」という著作があり、日精が書写し、近代の昭和に細井日達師が日蓮正宗の宗内で発行したものが妙観文庫に所蔵されているとのことです。日時師の著作としては、四帖見聞・三師伝・妙法蓮華経色心実相境智根源口決となりますが、日時著の妙法蓮華経色心実相境智根源口決も、日精が書写していますから、日精は日時由来の教義も知悉していたことになります。

日寛が、当時のいわゆる檀林教学の線で、石山教義を再編集したのは、要山教学の排斥のみならず、日精から日時由来の石山古式の相伝を受けた三鳥院日秀を派祖とする三鳥派の禁圧に、日精以後の石山歴代が大変な危機感を抱いたことを裏書きしていると思います。
日時がどこから、四帖見聞の下敷きとなる教義を入手したかですが、日時の三師伝では、興師伝には、日道の事績として元徳四年正月十二日の重須における“日興上人御遺告”の筆受が記録されるものの、目師伝が大変不自然な終わり方をしていることは、管理者様ご指摘の如く、日道が重須系であり、目師から師資の相承を受けなかったが故の処置の可能性が高いと存じます。となれば、日行・日時の二代に渡り、間近の東坊地の当家の御先師御先哲の僧衆・檀那が厳守伝承していた化法化儀を摂取したものとみると穿ち過ぎでしょうか。
  • 2012-11-08 18:10
  • れん
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[C1531]

お世話になります。コメントありがとうございます。

たしかに、原資料の開示があれば、確実な判断となりますね。一方の文書だけで判断するのは危険でしょう。

要法寺歴代の本尊、大石寺歴代(日精師前後)の本尊との比較考量ができるといいのですが、それはかなわないことです。

あとは、日精師在世に日秀を離門したことを証明する文書なり、幕府方に訴えた文書なり、なにがしかの裏付けがほしいところですが、叶わぬことでしょうか。

ただ確実に言えることは、今日残されている日秀筆本尊が、日精師本尊と同種の相貌であることで、これが当時露見すれば、三鳥派とのつながりを示す動かぬ証拠となり、大問題となったことでしょう。

それ故に、前回紹介の日精文書が偽造された、との想像もそれなりの考え方ではありますが、その言い分が当時の取締方に通用したかどうか。

諸賢の研究成果を待ちたいと思います。
  • 2012-11-05 14:03
  • 尚半道人
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[C1530]

尚半道人さん、

御高覧並びにコメントをありがとうございます。

御呈示の石山文書が、真実日精師の書かれた文書であれば、仰せの通りかもしれません。

しかし逆に、それらの文書が後代に三鳥派を悪しく印象操作する為に偽作されたものであれば、逆に当論の傍証になるものと思います。
  • 2012-11-05 05:40
  • 管理者
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[C1529]

四明さん、

御高覧並びにコメントをありがとうございます。
確かに「日蓮聖人在御判」とする、日時の本尊書写は、日目・日郷以来の石山相伝の復興かもしれませんね。
日道のそれは明らかに日興寄りで重須系だと思います。
  • 2012-11-05 05:35
  • 管理者
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[C1528]

お世話になります。
ご紹介のサイトをあらあら拝見してみました。

目の付けどころは小説のようで面白いのですが、”三鳥院日秀は実在しない”という肝心の部分の立論が、苦しいですね。「仮説」に酔ってしまったのでしょうか。

さて、日精筆「当家相承之事」(延宝九年八月十二日、歴全2-313)に、「当家相承の事~斯くの如き(日興当時のように大聖人から残さず相承されたと吹聴するー引用者)悪侶が未来にはいよいよ出で来べき故、斯くの如く書き置く所なり」云々とあります。

また、「当家甚深之相承事」(歴全2-314)にも、同様の内容がややくわしくのべられており、「此の遺附は名利の僧これありて相承残さず請取るの由出来故斯くの如く書き置く所なり」、「当時名利悪侶書写之本尊数多之あり必ず拝さるべからざるものなり」云々とあります。

これは三鳥院日秀のことと考えられないでしょうか。とするならば、日精師が日秀に本尊書写権を付与ないし相伝したという管理人さんのご所説は、少々当たらないかと存じます。

また、「当家相承之事」には「大聖人より相伝之分は日興一人也」とあり、この記載は、”第三祖日目上人が大聖人を超えた”という教義をとなえていたとされる三鳥派への反論ととらえることも可能ではないでしょうか。

とすれば、三鳥派の教義が三祖の目師を随一としていたという言い伝えは正しいということになり、三鳥はおそらく「三超」であったのでしょう。

なお、三鳥院日秀の書写本尊が日精師の相貌を踏襲しているのは、日精師と日秀との交流の深さをうかがわせるものとして、興味深いものがあります。一方、本尊書写本尊に他師の形式ーたとえば目師ーの相貌を踏襲しなかったことは、日秀の”情報源”が日精師に限定されていたことを意味するのかもしれません。

いっぽう、日秀の書写本尊に日目が書かれていないのは、その意味では不思議で、教義がいまだ整理されていなかったのでしょうか。布教に強く、教理確立に弱かったことが、時の政府による弾圧に生き残れなかった原因なのかもしれません。


  • 2012-11-04 21:27
  • 尚半道人
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[C1527]

日精上人の傍らに説法を聴聞していたのは三鳥院日秀上人ですので、おそらく周りの嫉妬があったのでしょう。日精上人は御影堂を再興し、本堂一体の意義をこめています。戒壇本尊を御影堂に御遷座していることから、精師が曼荼羅本尊主意論者であることは確実です。たとえ造仏があったとしても暫定的過渡的な措置として許されたのでしょう。西山系に広布造像論あり、要山も含め融会させたのでしょう。中国天台の知礼も、唯識と念仏も融会させています。正反対の要素を融会させることは決して珍しいことではありません。日寛師は『末法相応抄』で事実上の精師批判していますが、これは日永師の奥州方の石山古式をかたくなに護る集団が、反日精の権力闘争を繰り広げたからです。現在の正宗教学は、奥州方が護り通した時師有師の石山古式相伝法門と要山輸入法門、近代の戸田氏の生命論の三本柱から成り立っているのでしょう。ガンディーは終生ヒンドゥー教徒でしたが、藤井師に邂逅し、自分の道場の修行に南無妙法蓮華経を取り入れたことは、彼の思想と行動に深みをもたらしています。
  • 2012-11-04 19:41
  • 四明
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[C1526]

れんさん、

御高覧並びにコメントをありがとうございます。

日精師は出自が要山系と云う事で、とかく造佛との関係を云々されますが、実際には日精造立の仏像は皆無です。
逆に日精書写本尊、著述、御影像、堂宇は沢山あります。
堀日亨が日寛を中興と呼ぶまでは、大石寺の中興は日精だったわけです。
それほど日精は大石寺にとって重要な人物であったわけです。

その日精の本尊書写を受け継いだのは日秀でした。
大石寺が日秀と三鳥派を悪く言うのは、三鳥派が日精の血脈を受け継いだ、正当な大石寺相伝者であるからのように思えます。

  • 2012-11-02 18:51
  • 管理者
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[C1525]

管理者様

>三鳥院日秀…大石寺日精師より本尊書写権を相伝された

石山における本尊書写権といえば、石山九代日有師が雑々聞書に「大石寺は四帖の聖教とて先師の作之レ有り(中略)此ノ大事は門徒の首長計リ伝へて本尊を書くべし余は書くべからず」と述べております。日有師が言う、「四帖の聖教」なる著作を作成した“先師”とは、同じ日有師談の聞書“聞書拾遺”に「日時上人の御時四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間」と日有師自身が述べていることから、四帖の聖教=四帖見聞で、その著者が、大石寺の土地堂宇を掌中にし“大石寺門徒”としての日道師門流の実質的基盤を築いた日時師に比定されますが、大黒喜道師編著の日興門流上代事典によると「不現存」とのことです。

この日時師の四帖見聞=四帖の聖教は、日有師によると、日時師が自らの後継者としての大石寺門徒の首長が本尊書写権とともに継承すべき“相伝書”して著述したものとのことです。

管理者様の述べられた「三鳥院日秀…大石寺日精師より本尊書写権を相伝された」ということは、つまり三鳥院日秀は日精師より日時師の四帖見聞の相伝を受けたということでもあり、よって、現在の石山には「不現存」ということになった。

現在の大石寺教学が、日時師・日有師が著述・談話したものではなく、(大石寺側から見れば)他山である当門流の教義等を参照して日寛師が確立した教義の継承に終始している背景が、漸く分かった気がします。
  • 2012-11-02 09:06
  • れん
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Author:冨士教学研究会 管理者
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日蓮正宗・創価学会等の富士門流関連寺院・諸団体に関する議論は、池田大作氏の影響力低下と、諸賢の研究・考察・発表等によって、概ね結論はみえてきました。
それと同時に、冨士教学研究会の役割もほぼ終わりかけていると思います。
今後は、政治・宗教・社会等の問題を気ままに記してまいります。
更新頻度は特に定めません。皆さんも時間のあるときにのぞいてみてください。

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